= COLUMN =
定年夫に作り置きを拒否された、64歳妻のこと
64歳。定年退職した夫に、いつもの作り置きを「これ食べたくない」と言われたある日の話。3日続けて拒否されて、わたしは台所で何を思ったか。長年やってきた家事の意味と、これからの食卓のかたちを考えなおした、ある一週間の記録です。
夫が定年退職して、半年が経ちました。
退職した日のことは、よく覚えています。お赤飯を炊いて、夫の好きな鯛のお刺身を買って、ささやかにお祝いをしました。あのとき、夫は本当にうれしそうに、「これで一緒に過ごす時間が増えるな」と言ったのです。
ところが、半年経った今、わたしは台所で立ち尽くしています。
きっかけは、ある火曜日の夕方でした。
「これ、食べたくない」と言われた日
その日は、わたしの作り置きの定番、ひじきの煮物と、れんこんのきんぴらと、鶏のつくねを、夫の前に並べました。
40年間、ずっと作ってきたものです。子どもが小さい頃も、夫が現役で忙しかった頃も、これを並べておけば、誰かが帰ってきたときに、すぐに食事になりました。
夫はテーブルに座って、皿を見て、こう言ったのです。
「これ、食べたくない」
最初、わたしは聞き間違えたのかと思いました。聞き返すと、夫はもう一度、はっきりと言いました。
「ひじき、最近多すぎる。違うのが食べたいんだよ」
頭が、真っ白になりました。
40年、文句を言われたことなど、ありませんでした。むしろ、「お前の料理は安心する」と言っていた人です。それが、定年退職してから、急に変わったのです。
翌日も、その翌日も、拒否は続いた
その日は、結局、夫はお茶漬けを自分で作って食べていました。わたしは、自分の分のひじきを、ゆっくり口に運びました。味は、いつもと同じでした。
翌日の夜、わたしは少し趣向を変えて、ぶり大根を炊きました。これなら文句はないだろうと思いました。
ところが、夫はひと口食べて、「今日は気分じゃない」と言って、コンビニのおにぎりを買いに行ってしまったのです。
その翌日、ハンバーグを焼いてみました。夫は「ハンバーグ、最近油っこい」と言って、半分残しました。
3日続けて、拒否されたのです。
わたしは、台所の椅子に座って、しばらく動けませんでした。
何が悪いのか、わからなかったのです。
ある朝、夫がぽつりと言ったこと
4日目の朝、夫がコーヒーを飲みながら、こう言いました。
「お前さ、もう作り置きやめないか」
え、と聞き返すと、夫は続けました。
「俺さ、退職してから、毎日同じものが冷蔵庫にあるの、ちょっとしんどくてさ。月曜にひじき作ったら、火曜も水曜もひじき。なんか、定年したのに、毎日が同じすぎる気がしてさ」
その瞬間、わたしは、何かが胸に落ちる気がしました。
夫は、ひじきが嫌いになったわけではなかったのです。
毎日同じ生活、毎日同じ食卓、毎日同じパターン。それが、退職して家にずっといるようになった夫には、息苦しかったのです。
現役時代は、夫は会社で昼食をとっていました。同僚とランチに出かけたり、出張先で食事をしたり、毎日違うものを食べていたのです。それが急に、毎食、家のひじきになった。
夫の気持ちが、初めて少し、わかった気がしました。
わたしの方の、見えなかった事情
でも、わたしにも事情があります。
作り置きをするのは、楽だからではありません。あれは、わたしなりの効率と、節約と、健康への配慮の結晶です。
ひじきは鉄分。れんこんは食物繊維。つくねは安いタンパク質。3つを作っておけば、1週間、栄養バランスが保たれるのです。これを毎食違うものにしたら、買い物の量も増えるし、食費も上がるし、わたしの手間も2倍3倍になります。
それに、わたしも64歳です。台所に毎日3時間立つのは、正直、しんどいのです。
夫は知らなかったのです。
わたしが、なぜ作り置きをするのか。それを夫が知らないまま、ただ「飽きた」と言われたから、わたしは深く傷ついたのでした。
お互いに、相手の事情を知らずに半年やってきた。
これが、定年後の最初の半年の、わたしたちの正体だったのです。
夫と話した、その夜のこと
その夜、わたしは思いきって、夫に話しました。
作り置きをやめると、買い物と料理の時間が、いまの2倍になること。 わたしも体力が落ちていて、毎日3時間台所に立つのは無理なこと。 食費も、3割は上がるかもしれないこと。
そして、こう聞きました。
「あなた、もし作り置きやめてほしいなら、買い物と週末の料理、半分やってくれる?」
夫は、しばらく黙っていました。
そして、こう答えました。
「考えたこともなかった。お前の家事って、そんなに時間かかってたんだな」
40年連れ添って、初めて聞いたセリフでした。
それから1ヶ月、わたしたちが変えたこと
その晩から、わたしたちは、少しずつ食事のかたちを変えました。
平日の夜は、わたしが作る。ただし、作り置きは2品に減らして、毎日1品は新しいおかずを足す。 週末は、夫が食材を買ってきて、夫が料理する。最初はカレーと焼きそばだけでしたが、最近は親子丼まで作れるようになりました。 月に1回は、外食する。これまで、外食は「もったいない」とほぼしてきませんでしたが、ふたりで決めて月1回だけ、と決めました。
すると、不思議なことが起きました。
夫が「これ、食べたくない」と言わなくなったのです。
そして、わたしも、台所に立つのが、少しだけ楽しくなりました。
「今日はあの人のために、新しいおかずを1品だけ考えればいい」
それが、ちょうどよかったのです。
64歳のいま、わたしが思うこと
定年退職は、夫の人生のイベントだと思っていました。でも、本当は、夫婦両方の人生のイベントだったのです。
40年続けてきた、わたしの家事のリズム。 40年続けてきた、夫の仕事のリズム。 両方が、定年で同時に変わったのです。
でも、わたしは、自分のリズムは変わらないと思いこんでいました。だから、ひじきを毎日出し続けたのです。
夫は夫で、自分が変わったことに、最初は気づいていませんでした。だから、「飽きた」「食べたくない」と、子どものような言葉で拒否したのです。
ふたりとも、おたがいに見えていなかった。
それが、定年後の最初の半年の正体だったように思います。
いま、わたしは64歳。夫は65歳。
これから先、何年一緒にいられるかは、わかりません。でも、毎日のひじきから始まった話し合いが、夫婦のこれからを、少しだけ柔らかくしてくれた気がします。
定年退職した夫に、もし「これ食べたくない」と言われたら、傷つくと思います。
でも、ひとつだけ覚えておきたいのは、それは料理への文句ではなく、たぶん、相手なりの「変えたい」という気持ちのサインだということ。
その夜、夫と話してみると、もしかしたら、何かが見えるかもしれません。
わたしの場合は、見えました。
この話を分かち合う