= COLUMN =
63歳、白髪を染めるのをやめた朝のこと
63歳。20年続けてきた白髪染めを、今年の春にやめました。やめると決めた朝の、夫の一言。やめてから3ヶ月、鏡の前で気づいたこと。グレイヘアという言葉では収まらない、ある女性の小さな決断と、その後の朝の話です。
20年、白髪を染めていました。
40代の半ばから染めはじめて、2ヶ月に一度、美容院で4時間かかります。料金は1回8,000円。20年で約80万円使いました。
80万円の話は、いま振り返ったから出てくる数字です。当時は、計算もしませんでした。「染めるもの」だと思っていたからです。
ところが、今年の3月のある朝、私は、染めるのをやめると決めました。
理由は、ひとつではありません。
やめると決めた朝のこと
その朝、洗面所の鏡の前に立っていました。
前回の染めから6週間。生え際の白髪が、3センチほど出ていました。シャンプー後の濡れた髪を見ていて、ふと思ったのです。
「これ、染めなくても、いいんじゃないかしら」
声には出しませんでした。
ただ、思いました。
それから台所に行って、夫にコーヒーを淹れました。淹れている途中で、夫が新聞を畳んで、こう言いました。
「白髪、増えたね」
私は、コップを手に止まりました。
20年来、夫から白髪について何か言われたのは、初めてです。
「気にしてないけど」と夫は続けました。「気にしてた?」
私は、コーヒーを夫の前に置きながら、こう答えました。
「2ヶ月に一度、4時間かけて染めてきました」
夫は、目を上げて、私を見ました。
それで、その朝、私は決めました。
美容院に電話した日
3日後、美容院に予約のキャンセルの電話を入れました。
担当の美容師さんは、20年来の付き合いです。理由を聞かれて、私は「染めるのを、しばらく休もうと思って」と答えました。
「グレイヘアに移行ですか?」
「そういう、はっきりした言葉じゃないんです。ただ、休もうと思って」
美容師さんは、少し黙ったあと、「分かりました、無理せず」と言いました。
電話を切ってから、私は少し、震えました。
20年続けていた何かを止めるとき、こんなふうに体が震えるのだと、63歳になって初めて知りました。
やめて1ヶ月目、人と会うのが怖かった
最初の1ヶ月は、本当に辛かったです。
染めた部分と、白髪の部分の境目が、はっきりと分かれてしまいます。鏡を見るたびに、「みっともない」という言葉が、自動的に頭に浮かびます。
3週目に、近所の友人とランチがありました。約束を、いったんキャンセルしようかと考えました。
考えて、行きました。
帽子をかぶって、薄いショールを首に巻いて、隠せる範囲は隠して、行きました。
友人は、私の頭の上を見て、こう言いました。
「あら、なんだか軽やかになったね」
私は、笑いました。たぶん、上手く笑えていませんでした。
帰り道、私は自分に呆れました。他人は、私が思うほど私を見ていない。それなのに、私だけが私の頭ばかり気にしている。
そのことが、ようやく、3週間目に分かりました。
やめて3ヶ月目、いま
今は5月の半ばです。やめてから、2ヶ月半。
頭頂部から、白髪と黒髪のまだら模様が、5センチほど伸びました。境目は、まだ残っています。
それでも、鏡を見るのが、最初ほど辛くなくなりました。
理由は、よくわかりません。
たぶん、慣れたのではなくて、「これが私だ」と思えるようになったのだと思います。
20年、染めていた私の頭の中には、「白髪は隠すもの」という考えが、岩のように居座っていました。
その岩を、3ヶ月かけて、少しずつ、削っているような気がします。
浮いた4時間と、8,000円
2ヶ月に一度、美容院に4時間。その時間が、ちょうど今、浮いています。
3月、4月、5月。3回ぶん、12時間です。
12時間を、私は何に使ったか。
1度目は、近所のカフェで本を1冊読みました。 2度目は、いつも閉まる前に駆け込むスーパーに、ゆっくり夕方に行きました。 3度目は、ベランダの椅子で、何もせずに1時間半いました。
8,000円も、3回ぶんで24,000円浮きました。
24,000円で、ずっと欲しかった革の手帳を買いました。表紙が硬くて、開くたびに小さな音がします。「ぱきっ」というその音が、新しい朝の合図みたいになりました。
やめて分かった、4つのこと
長く続けてきた習慣をやめて、3ヶ月。いま、分かったことが4つあります。
ひとつ。「いつもやっていること」の半分は、惰性でできている。本当に必要かどうか、いちど止まらないと気づけません。
ふたつ。やめると決めた日に、人生は変わらない。1ヶ月目は地獄、2ヶ月目はためらい、3ヶ月目にやっと「これでいい」が来ます。
みっつ。他人は、思うほど私を見ていない。私の頭の白髪に気づいたのは、夫と美容師さんと、たぶん私だけです。
よっつ。やめたら、何かが浮く。お金、時間、心の重さ。浮いたぶんで、好きなことをすればいい。
染めるかやめるか、迷っている方へ
20年染めてきた60代の私が、いま伝えたいことはひとつだけです。
「染めるのを、やめてもいいんですよ」
やめると決めることと、やめ続けることは、別の話です。
3ヶ月だけ、休んでみる。それで自分が嫌になったら、また染めればいい。誰も、止めません。
ただ、3ヶ月のあいだに、自分が思っていたより「私」を変えても大丈夫なのだと、気づくかもしれません。
私が、そうでした。
60代から始める『自分時間』の完全ガイド / 64歳の梅雨入り、家事を3つやめてみました / 60代から始める『大人の趣味』10選 / ヨバナシ「みんなの夜話」
※本コラムは、ヨバナシ編集部が複数の60代女性への取材をもとに、フィクション化した一人称体験談です。プライバシー保護のため、登場人物・年齢・状況に修正を加えています。
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