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父が亡くなった日、母とふたりで台所に立った2時間
85歳の父が亡くなった日の夜、わたしと80歳の母は、なぜか、台所にふたりで立っていました。葬儀社の手続きが終わって、家に戻った夜の8時から10時までの2時間。何かを作ろうとしていたわけではなく、ただ、ふたりで立っていたかったのです。あの夜の話を、3年たった今、書きます。
父が亡くなった日のことを、今日は書きたいと思います。
3年前の、夏でした。
父は85歳。長く入院していた病院で、夜中に、静かに逝きました。
母は80歳。連絡を受けて、わたしと夫が車で母を迎えに行って、3人で病院に駆けつけました。
父の最期に、わたしたちは、間に合いました。
そして、その日の長い1日が終わって、夜の8時、わたしと母は、実家の台所にふたりで立っていました。
何かを作ろうとしていたわけでは、ありません。
ただ、ふたりとも、台所に立っていたかったのです。
あの2時間のことを、書き残しておきたいのです。
病院から帰ってきた、その日の夕方
父の死が確認されたのは、朝の6時頃でした。
そこから、ノンストップでした。
死亡診断書の受け取り。 葬儀社への電話。 父の遺体の搬送。 病院の精算。 入院荷物の引き取り。 親族への電話連絡。
夫が運転を担当して、わたしが連絡係、母はずっと、後部座席で静かに座っていました。
夕方5時頃、ようやく、3人で実家に戻りました。
葬儀は明日。 明日からまた、いろんなことが始まる。
「今日は、もう、いいから」
わたしは母に、そう言いました。
「お風呂入って、寝てよ」
ですが、母は、リビングのソファに座ったまま、動きませんでした。
7時頃、母が「お腹すいたね」と言った
夫は、わたしたちの夕食のために、コンビニでお弁当を買ってきてくれました。
3人でリビングのテーブルに座って、お弁当を食べました。
母は、ふた口くらい食べて、お箸を置きました。
「お腹いっぱい」
それから、母は、ぽつりと、こう言いました。
「お父さんは、いっつも、お弁当をいやがってたわね」
3人とも、しばらく黙りました。
そう、父は、コンビニのお弁当を、嫌いな人でした。 「冷たいご飯はだめだ」と、よく言っていました。
夫が、こう言いました。
「お父さん、お赤飯とかが好きだったよな」
母は、また、ぽつりと、こう言いました。
「お赤飯、結婚記念日に、毎年炊いてたのよ」
そして、立ち上がって、台所に向かいました。
母が、米を研ぎ始めた
わたしが台所に入ると、母が、米を研いでいました。
「お母さん、何してるの」
母は、米を研ぎながら、こう答えました。
「お赤飯、炊くのよ。お父さんに」
わたしは、しばらく、立ち尽くしました。
夫は、リビングに残って、テレビをぼんやり見ていました。
母は、米を研ぎ終わって、小豆の袋を取り出しました。
「お母さん、わたしも、手伝うね」
わたしは、母の横に立ちました。
母が、小豆を鍋に入れて、水を入れて、火にかけました。
「30分、これでゆでるの」
小豆をゆでているあいだ、母は、こう言いました。
「結婚記念日のお赤飯はね、お父さんのリクエストだったのよ。本当は、お父さん、お赤飯が大好きだったの」
わたしは、知りませんでした。
父は、お赤飯のことを、家族にあまり言わない人でした。 ただ、結婚記念日の朝、テーブルにお赤飯が並ぶと、いつもより、機嫌がよかったのです。
それが、父のお赤飯への、唯一の表現でした。
黙々と、お赤飯を炊いた2時間
母とわたしは、ほとんど話さずに、お赤飯を炊きました。
小豆をゆでる音。 お米と小豆を混ぜる、しゃもじの音。 炊飯器のスイッチを押す、カチッという音。
それぞれの音が、台所の静けさの中で、しっかりと、響きました。
40分、炊飯器のなかで、お赤飯が炊けていきました。
そのあいだ、母とわたしは、台所のシンクで、洗い物をしました。 朝、急いで出かけたとき、流しに残っていた、湯のみとお皿。 父が入院していたあいだ、母がひとりで使っていた、コーヒーカップ。
ぜんぶ、洗いました。
母は、洗い物の途中で、何度か、こう言いました。
「あんた、ありがとう」
わたしは、何度も、こう返しました。
「お母さん、いいから、いいから」
なんでもない会話でした。
ですが、その「ありがとう」と「いいから」が、母とわたしのあいだに、35年で初めてのような、静かな絆を、作っていたのです。
9時、お赤飯が炊けた
炊飯器の音が「ピー」と鳴って、お赤飯が炊けました。
母は、フタを開けて、しばらく、お赤飯を見ていました。
ふっくらと、つやつやで、本当においしそうでした。
母は、わたしに、こう言いました。
「お父さん、たぶん、もう食べられないわね」
わたしは、何も答えませんでした。
母は、お赤飯を小皿に取り分けて、リビングの父の遺影(まだ用意できていなかったので、父が元気な頃の写真をテーブルに立てかけたもの)の前に、お供えしました。
そして、母は、こう言いました。
「お父さん、おかえり。お赤飯、炊いたよ」
涙が、ぽろぽろ、母の頬を伝いました。
わたしも、母の隣で、泣きました。
夫は、ソファから、ただ、わたしたちを見ていました。
残ったお赤飯を、3人で食べた
母は、ひとしきり泣いたあと、お赤飯を3人分、お茶碗によそって、テーブルに並べました。
「食べよう」
母が、そう言いました。
夫とわたしも、お茶碗を持ちました。
3人で、無言で、お赤飯を食べました。
母のお赤飯は、本当に、おいしかったです。 お塩がほんの少し効いていて、小豆もふっくらしていて、お米はもちもちしていて。
35年、家族で食べていた、結婚記念日のお赤飯の味でした。
3人で食べ終わったとき、母が、こう言いました。
「お父さん、たぶん、上から、見てるわね」
その「たぶん」が、母の最大限の、信仰の言葉でした。
母は、もともと、信仰深い人ではありませんでした。 ただ、その夜の「たぶん」は、母の心からの言葉でした。
3年たって、わたしが思うこと
それから3年。
母は83歳になって、ひとり暮らしを続けています。 わたしは月2回、実家に通って、母の様子を見ています。
母とわたしは、いまでも、父が亡くなった日のことを、たまに話します。
そして、いつも、最後に、母はこう言います。
「あの夜のお赤飯は、わたしの人生でいちばんおいしかったね」
わたしも、同じです。
父が亡くなった、その日の夜のお赤飯。 あれが、わたしの人生でいちばん、深く、心に残るお米でした。
親が亡くなった夜の、台所
親が亡くなった日の夜、ご遺体を引き取ったあと、家に帰って、何をすればいいか、誰も教えてくれません。
葬儀社の準備で、すべきことはあります。 親族への連絡も、まだ残っているかもしれません。 明日からの服装、香典返しの準備、いろんな実務が、待っています。
ですが、その夜、わたしと母には、それらより、台所に立つことのほうが、ずっと大事でした。
何かを作る、というより、ふたりで、亡くなった父のことを、手と体で、お米を通して、感じる時間が、必要だったのです。
これは、誰かに教わったことでは、ありません。 ただ、母が、自然と、台所に立ったから、わたしも、自然と、隣に立ったのです。
いつか、同じ場面に立つ方へ
もし、いま、ご両親のどちらかが、もう長くないかもしれない、と感じている60代の方がいらっしゃるなら、申し上げたいことが、ひとつだけ、あります。
亡くなった日の夜、もし、ご遺族のひとりが、台所に向かったら、何も言わずに、隣に立ってあげてほしいのです。
何を作るか、ではないのです。 ふたりで、台所に立つことが、たぶん、いちばんの、その日の儀式なのです。
わたしと母が、3年前のあの夜、台所で2時間過ごしたことは、その後の3年の母とわたしを、たぶん、いちばん、支えてくれています。
亡くなった親と、まだ、お赤飯を、一緒に炊けるのです。 台所で。 たぶん、それは、家族の最後の贈り物なのです。
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