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夫が定年退職した日、わたしが用意した3つのもの
夫が65歳で定年退職する日の朝、わたしは3つのものを、ひっそりと用意しました。お赤飯でも、花束でも、退職祝いの品でもない、3つのもの。35年連れ添った夫の、この先の暮らしを、わたしなりに支えたかったのです。退職から1年たって、その3つが、本当に役立ったかを、振り返って書きます。
夫が、65歳で定年退職した日のことを、今日は書きたいと思います。
その日の朝、夫はいつもどおり、6時半に起きました。 「最後の出勤だな」と、ぽつりと言いました。 わたしは、いつもどおりの朝食を、用意しました。 夫は、いつもどおり、7時半に家を出ました。
ただ、その夕方、わたしは、いつもとは違って、3つのものを、ひっそりと用意していました。
お赤飯でも、花束でも、退職祝いの品でもない、3つのものです。
退職して1年経った今、振り返ると、わたしが用意した3つは、夫の「定年退職後の最初の1年」を、本当に支えてくれました。
用意したもの① 夫専用の「やることリスト」
ひとつめは、A4のクリアファイルに入った、夫専用の「やることリスト」でした。
リストの中身は、こんなものでした。
- 退職翌週: 区役所で年金関連の手続き(必要書類リスト付き)
- 退職翌週: 健康保険を、国民健康保険に切り替え
- 退職2週目: ハローワークで失業給付の申請
- 退職1ヶ月: 確定申告の準備(年内分)
- 退職2ヶ月: 自治体の介護保険手続き(誕生月)
- 退職3ヶ月: 銀行で年金口座の確認
ぜんぶ、わたしが、退職前の3ヶ月、本を読み、市役所に電話し、調べた内容でした。
公的な情報源では、こう案内されています。
退職後、健康保険を任意継続するか、国民健康保険に加入するかを選択する必要があります
退職後の手続きは、思った以上に、たくさんありました。 わたしが先に調べておかなかったら、夫はたぶん、見落としや、申請漏れが、必ずあったと思います。
夫に、その夜、クリアファイルを渡しました。
「お疲れさま。明日から、これを順番にやっていけば、たぶん、大丈夫」
夫は、しばらく、ファイルを眺めて、こう言いました。
「お前、こんなの、いつ作ったんだ?」
35年連れ添った夫が、初めて「お前、こんなの…」と、感心するような声を出しました。
それまで、わたしの家事は、夫にとって、「当たり前にやってくれているもの」でした。 ですが、定年退職という人生の節目で、わたしが先回りで準備していたものを見て、夫は初めて、わたしの「見えない仕事」に気づいてくれたのかもしれません。
リストは、1ヶ月で、夫の手で、ぜんぶ消化されました。 申請漏れも、書類不足も、ゼロでした。
用意したもの② 「ふたりの30年計画」のメモ
ふたつめは、A4の便箋1枚に、わたしが手書きで書いた「これから30年の、ふたりの計画」でした。
書いたのは、こんなことです。
60代(これからの5年)
- 夫の体力が落ちないよう、毎日30分の散歩を、ふたりで
- 国内旅行を、年2回
- 月1回は、外食(高くないお店で)
- 趣味の時間は、お互い邪魔しない
70代(その次の10年)
- 夫の体力を見ながら、旅行は短距離を増やす
- 健康診断を、年1回、必ず一緒に受ける
- 大きな買い物は、しない
- 孫(将来できるかも)と関わる時間を、大事にする
80代(その次の10年)
- どちらかが介護になったら、もうひとりが、無理せず外の手を借りる
- お互いの兄弟との関係を、年1回は確認する
- 住まいを、バリアフリーに少しずつ整える
90代(もしまだ生きていたら)
- 楽しいことだけ、する
- 細かいことは、もう、気にしない
書いたのは、わたしの考えだけです。 夫の意見は、何も入っていません。
ですが、それでよかったのです。
退職した日の夜、わたしと夫は、リビングで、このメモを一緒に読みました。
夫は、最初、ふっと笑いました。
「90代まで、生きてる前提か」
それから、こう続けました。
「いいな、これ。ふたりで決め直そう」
夫は、わたしの便箋の余白に、自分の意見を、書き始めました。
「散歩は、毎日30分はきついから、毎日20分にしよう」 「旅行は、ホテルじゃなくて、駅近の旅館がいい」 「孫と関わる時間は、たぶんもうそろそろ近い」
35年連れ添って、わたしと夫が、未来の話を、便箋一枚で具体的に話したのは、たぶん、初めてでした。
このメモは、いま、わたしの引き出しの一番上に、しまってあります。
ときどき、夫と一緒に、見返します。 「最近、散歩、20分続けてる?」とか、「ホテルじゃなくて、旅館にしよう」とか。
このメモが、定年後のわたしと夫の「ふたりの方向」を、ずっと示してくれています。
用意したもの③ 「夫の好きな本3冊」
3つめは、書店で買った、夫の好きそうな本、3冊でした。
夫は、現役時代、ほとんど本を読みませんでした。 通勤時間も、お昼休みも、夜の時間も、ぜんぶ仕事関連のことを考えていたからです。
ですが、退職したら、その時間が、いっぺんに空きます。
夫は、空いた時間を、何で埋めるか、たぶん、まだ考えていない。 そう、わたしは想像していました。
何もしないでテレビを見続けるか、ゴルフを毎日行くか、それも悪くない。 でも、本を読む習慣ができたら、夫の老後は、もう少し、豊かになるかもしれない。
そう思って、夫が現役時代に「いつか読みたい」と一度でも言ったことのある分野の本を、3冊、選びました。
- 戦国時代の本(夫が大河を見ながら「あの時代、ちゃんと読みたい」と言ったから)
- 鉄道旅行のガイド本(夫が現役の頃、出張で各地に行ったことを楽しそうに話していたから)
- 健康についての本(夫の血圧が、最近上がり気味だから)
3冊を、リビングの本棚の、夫の手が届きやすい場所に並べておきました。
退職した翌週、夫は、戦国時代の本を、手に取りました。
「お前、これ、買ったのか」
「うん、お赤飯買おうかと思ったけど、本にしたの」
夫は、ふっと笑って、その本を、リビングのソファに持っていきました。
それから1ヶ月、夫は、その本を読み終わって、もう一度、本屋に行きました。 今度は、自分で、続きの本を、2冊、買って帰ってきました。
戦国時代のことが、夫の新しい趣味になりました。
いま、夫は、戦国時代の本を、月に2、3冊、読んでいます。 わたしも、夫の話を聞きながら、なんとなく、戦国大名の名前を覚えました。
夫婦の会話の話題が、ひとつ増えました。
用意したものに、見えない4つめがあった
3つ用意したつもりでしたが、実は、見えない4つめが、あったと、後で気づきました。
それは、「夫の退職を、ちゃんと見送ろう」というわたしの気持ち、でした。
3つのものを用意したのは、夫を「労る」ためだけでは、なかったのです。
それは、わたし自身が、「夫の人生の節目を、しっかり受け止めたい」という、わたしの儀式でもありました。
「お疲れさま」「ありがとう」「これからもよろしく」、この3つの気持ちを、3つの具体的なものに込めて、夫に渡した。
そのことが、わたしの中で、夫婦35年の一区切りを、ちゃんと意識する時間に、なっていたのです。
退職から1年、夫が言ったこと
退職から1年経った、ある夜、夫がぽつりと、こう言いました。
「お前が、あの3つを用意してくれてなかったら、俺の最初の1年、もっと、しんどかったと思う」
「やることリスト」のおかげで、手続きの抜け漏れがゼロだった。 「30年計画のメモ」のおかげで、ふたりの方向が、ぶれずに進めた。 「3冊の本」のおかげで、新しい趣味ができた。
夫の言葉は、わたしには、十分すぎる、退職1年後の「ありがとう」でした。
ご主人(または奥さま)の定年退職を迎える方へ
もし、いま、ご主人や奥さまの定年退職を、これから迎える方がいらっしゃるなら、3つのものを、ぜひ、ひっそりと用意してみてください。
- 退職後の3ヶ月分の「やることリスト」(年金、健康保険、税金関連)
- ふたりの「これから30年の計画」(雑でいい)
- 相手の好きそうな本か、新しい趣味の入口になるもの
特別なお金は、ほとんどかかりません。 やることリストは、本と市役所の電話で作れます。30年計画は、便箋1枚。本は、3冊で5,000円もしません。
ですが、この3つが、相手の「退職後の最初の1年」を、確実に支えます。
それより、3つを用意するあなた自身の中に、「相手の人生の節目を、ちゃんと受け止めた」という感覚が、残ります。
これが、夫婦35年、40年の関係を、もう一段、深いものに、たぶん、してくれます。
夫の退職から1年、わたしと夫は、これまでの35年とは、少し違う、新しい関係に、入りました。
その入り口にあったのが、退職の日の夜、わたしが用意した、3つの小さなものでした。
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