= COLUMN =
相続放棄って何を失う?母の借金で悩んだ夏のこと
63歳の夏、亡くなった母に200万円の借金があると分かりました。相続放棄を3ヶ月以内にしないと、わたしがその借金を背負うことになる。実家、母の遺品、母との思い出。放棄すれば全部失うと思いこんでいたわたしが、弁護士に相談して気づいた、相続放棄で「失うもの」と「失わないもの」のリアルな話です。
63歳の夏、母が亡くなりました。
88歳。長年の入院生活の最後でしたから、覚悟はしていました。
葬儀を済ませて、49日も終わって、わたしと弟で実家の片づけを始めたのは、亡くなった2ヶ月後のことでした。
そこで、わたしたちは、見つけてしまったのです。
母の通帳と、消費者金融からの督促状を、3通。
合計、200万円の借金でした。
「相続放棄しないと、自分が背負う」
最初、わたしは事態がよく分かっていませんでした。
「お母さんの借金なんだから、お母さんのものでしょう。亡くなったらおしまいじゃないの?」と、弟に聞きました。
弟は、いやそういうわけじゃないらしいよ、と検索を始めました。
そして、わたしたちは、はっきり知ったのです。
人が亡くなると、その人の財産も借金も、両方とも、相続人に引き継がれる。 引き継ぎたくない場合は、「相続放棄」という手続きを、亡くなったことを知ってから3ヶ月以内に家庭裁判所でしなければならない。 3ヶ月を過ぎると、自動的に「相続を受けた」ことになる。
母が亡くなったのが7月、わたしたちが督促状を見つけたのが9月でした。
10月の半ばまでに、決めなければなりません。
「相続放棄したら、全部失う」と思いこんでいた
わたしは、最初、こう思いこんでいました。
相続放棄をすると、母のすべての財産を放棄することになる。 つまり、実家も、母の遺品も、母の写真も、思い出も、全部、わたしから消える。
実家は築60年の古い家ですが、わたしが生まれ育った家です。母の遺品の中には、わたしが小学生のときに作ったクリスマスツリーや、お正月に着ていた振袖もありました。
「200万円のために、思い出をぜんぶ捨てるなんて、できない」
最初の数日、わたしはずっとそう思っていました。
弟は弟で、母の借金を背負うのは自分も無理だと言いました。弟は中小企業で働いていて、年収もそれほど高くないからです。
兄弟ふたりで、しばらく途方に暮れました。
法テラスに電話した日
ある日、新聞の片隅で「法テラス」という相談先のことを読みました。法テラスというのは、法律の専門家に低額または無料で相談できる、国の機関のような窓口だと知りました。
わたしは、思いきって電話しました。
電話に出てくれたのは、女性のスタッフでした。事情を話すと、「相続放棄でしたら、最初の30分は無料で、弁護士さんに相談していただけますよ」と教えてくれました。
予約を取って、3日後、近くの法律事務所に行きました。
そこで、わたしの思いこみが、ぜんぶ崩れたのです。
弁護士さんに言われた、3つのこと
弁護士さんは、60代の女性の方で、穏やかに、3つのことを教えてくれました。
ひとつめは、相続放棄をしても、「思い出」は失わない、ということです。
「相続放棄は、お母様の財産と借金を法律的に受け取らない、という手続きです。お母様の写真を見ることも、思い出を心に持ち続けることも、それとはまったく別のことです。法律は、あなたの記憶には関与しません」
これを聞いて、わたしは少しほっとしました。
ふたつめは、相続放棄をしても、家庭裁判所での手続きが終わるまでに、「形見分け」として母の遺品の一部を持ち帰ることは、一般的には認められうるそうだ、ということです(具体的な範囲はケースバイケースだから、必ず弁護士に確認してから動いてください、と念を押されました)。
「お母様の振袖や、お母様が大事にしていた小物などは、お金で換算するほどの価値がないものであれば、形見として持ち帰っても、相続放棄の効力には影響しないケースが多いです。ただし、価値のある宝石や預金は別ですので、必ず手をつける前にご相談ください」
これも、わたしには大きな救いでした。
みっつめは、実家については、放棄するしかない、ということです。
「家は財産です。財産を一部だけ受け取って、借金だけ放棄する、ということはできません。実家を残したい場合は、200万円の借金も引き受けて、家を相続することになります」
実家を残すには、200万円を返す覚悟が必要。 それができないなら、家は手放すしかない。
弁護士さんの言葉は、わかりやすく、率直でした。
弟と話し合って、決めたこと
その夜、弟と長時間話しました。
実家は、誰も住む予定がありませんでした。築60年で、リフォームには500万円以上かかると言われていました。賃貸に出すにも、立地が悪く、借り手がつくとも思えませんでした。
200万円を借金として返して、500万円かけてリフォームして、それでも誰も住まないかもしれない実家を、わたしたちは残せませんでした。
涙が出ましたが、それは現実でした。
そして、わたしたちは「相続放棄」を選びました。
形見として、母の振袖、母の手作りのクリスマスツリー、母のアルバム、母が編んだセーター3着を、わたしの家に持ち帰りました。
弟は、母が大事にしていた万年筆と、母の眼鏡を持ち帰りました。
それ以外は、すべて家ごと、相続放棄しました。
相続放棄で、本当に「失ったもの」と「失わなかったもの」
3年経って、いま振り返ってみます。
失ったものは、ふたつだけでした。
- 母の実家(築60年の家屋と土地)
- 母の銀行口座にあった少額の貯金(約30万円)
失わなかったものは、たくさんあります。
- 母の写真とアルバム
- 母の振袖と着物
- 母の手作りの品(クリスマスツリー、セーター、刺繍など)
- 母の万年筆(弟が持ち帰り)
- 母との思い出すべて
- わたしと弟との家族関係
- 200万円の借金を背負う未来
ふたつ失って、たくさん守れたのです。
家を失ったのは、もちろん悲しかったです。でも、200万円を抱えて毎月返済し続ける生活と、家を手放して借金もない生活を比べたら、どちらが母も喜んでくれただろうかと、いまは思います。
母は、わたしと弟が借金で苦しむのを、絶対に望まなかった人でした。
相続放棄でやってはいけなかった、3つのこと
弁護士さんに言われて、わたしが気をつけたことも、書いておきます。
ひとつめ、相続放棄を決める前に、母の預金から1円もおろさない、ということです。 「相続を受け取った」と見なされる行為(預金の引き出し、家の名義変更、価値のある遺品を売る、など)を一度でもすると、相続放棄ができなくなる、と言われました。
ふたつめ、母名義の支払いに、自分のお金で立て替えないことです。 公共料金や保険料の請求が来ても、自分のお金で払うと、これも「相続を受けた」と解釈される場合があるそうです。
みっつめ、家の中の遺品を、勝手に捨てない、勝手に売らないことです。 形見として持ち帰るのは大丈夫な場合がありますが、捨てたり売ったりすると、判断が難しくなる場合があるそうです。
これは法律的に少し複雑な領域なので、相続放棄を考えている方は、自分で判断する前に、必ず弁護士か司法書士に相談してください。
法テラスは、本当に役に立ちました
最後に、わたしを救ってくれた「法テラス」のことを、少し書いておきます。
法テラスは、収入が一定以下の方には、無料で弁護士相談を提供してくれます(条件あり)。わたしも、初回30分が無料、その後の手続きも、収入に応じて分割払いや援助の対象になりました。
「弁護士なんて、お金持ちのもの」と思っていたわたしですが、これがあったから、相続放棄の判断ができたのです。
連絡先や利用条件は、最新の情報を必ず公式サイトでご確認ください。
60代の方へ、ひとことだけ
親が亡くなったとき、相続のことは、いきなり降ってきます。
知らないと、3ヶ月の期限を逃して、知らないうちに親の借金を背負っていた、ということが起こります。
もし、いま、親御さんがご高齢の方は、一度だけでもいいので、こんな話を親御さんと持ってみてください。
「お父さん、お母さん、もし何かあったときに、ご家族が困らないように、銀行とか保険の書類が、どこにあるか、教えておいてもらえる?」
ここまでで十分です。借金の有無を直接聞くのは、なかなか難しいです。
でも、書類の場所さえ分かっていれば、亡くなったあと、わたしのような3ヶ月の慌ただしさが、ずいぶん減ります。
わたしは、それを母から聞いておけなかったことを、いまでも少しだけ、悔やんでいるのです。
なお、この記事は個人の体験と、相談した弁護士の助言をもとに書いています。相続放棄の具体的な手続きや判断は、ケースによって大きく異なります。実際の手続きを進める前に、必ず弁護士・司法書士または法テラスにご相談ください。
この話を分かち合う